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2019年11月24日日曜日

第18回 悩みどころ/悩むべきでないところ その1




1 概要

 答練を受けたり問題集や過去問の参考答案を見たりしていると、「自分の思ったのと異なる法律構成・論点が厚く論じられている」とか、「規範定立部分で悩みを見せて厚く書いたが、その分あてはめが薄くなってしまい、答練で悪い点が付いた」など、いったいどこを悩むべきでどこは簡単に書くべきなのかよくわからなくなってくることがあるかもしれません。

 今回はこれについての一般的な話です。(精神論に近い抽象的な話ですし、かなりニッチな話だと思うので、人によっては参考にならないと思います。)

 簡単に言うと、

・みんなが同じように考えるところは、簡単に書けばよい。
・みんなが悩むところは、悩みを見せつつ厚くしっかり書く必要がある。
・自分は気になるけれど、みんなはそもそもそんな所を気にしない、という部分は、書かなくてよい。

ということになります。

 たとえば「殺害目的を秘して住居に立ち入った」という事例なら、みんな特に悩むことなく満場一致で住居侵入罪を成立させるでしょうから、その論述は簡単に済ませればよいです。そこで省いた時間と紙幅は、他の論点等につぎ込むべきです。
 他方、「強盗の手段たる暴行脅迫がされてから数時間後、かつ何10キロも離れた場所でされた行為から致傷結果が生じた」という事例での強盗致傷罪の成否では、「強盗が人を負傷させた」といえるのかについて、手段説・機会説等のいずれの見解を採用するのかや、事実関係をどう評価するかで結論が変わりえますから、これらについてみんな悩むことになります。そのため、ここはしっかり厚く論じる必要があります。

 なぜこのように「みんな」を強く意識する必要があるのでしょうか。それは、「法学、特に実務法学の目的が、相手(みんな)の説得だから」です。

 この点は、司法試験を目指す方のうち大部分はすんなり理解できるのではないかと思います。ここまで読んで「そんなことは当然だ」と思える方は、今回のお話はスルーしていただければと思います。



2 実務法学は、相手を説得できるかが全て

 実務法学においては、裁判所としては「敗訴当事者や国民が納得できるような(少なくとも反論できないような)判決書を書く」、当事者としては「裁判所を説得して自分の望む判決を得る」などを目指すことになるので、「誰かを説得する」ことが不可欠になってきます。

 例えば自然科学の世界であれば、誰からも理解してもらえない独自の理論であっても実験室で結果を出すことができることもあるかもしれません。

 しかし、実務法学の世界では、人を説得せずに結果を出すことはそもそも不可能です。(説得失敗の典型的場面は、判決文で見かける「・・所論は独自の見解を言うものであって、採用できない。・・・」とかいうアレです。)

 このように、実務法学の世界では、誰かを説得して初めて結果になります。したがって、説得が必要な部分はしっかり書く必要がありますし、逆に、説得するまでもないこと(誰も反論しないようなこと)はあまり書く必要がありません。

 この点については生まれつき理解できている人が多いかと思いますが、あまり意識できていない人もいると思います。

 かく言う私は、勉強し初めたころはこの点があまりよく分かっておらず、無意味な部分にこだわって勉強時間や答案の紙幅を使ったり、逆にみんながしっかり書く論点を簡単に済ませてしまったりするようなことがありました。例えば、暴行罪の「暴行」の定義は「不法な有形力の行使」と解されていますが、「不法とはどんなのを言うのだろう?判断基準は要るんだろうか?」などと無意味に悩んでしまったりするなどです。

 しかし、あるとき気づきました。「みんなが悩まないことなら自分も悩まなくてよい。」

 例えば「常に一義的に正解が決まる」数学的思考や、「実際にモノで結果が出せる」自然科学系の思考になじんでいる人の一部には、「みんながどう考えるか」などという曖昧フワフワなものによって答案に何を書くべきかが変わってくることは奇異に映るかもしれません。言葉は悪いですが、クソゲーに見えるかもしれません。

 しかしそうではありません。目的が異なるから手段が異なるだけです。「人を動かす」ことが目的だから、「相手(皆)が関心を持つ論点について、相手(皆)の理解できるロジックで論じる」ことが手段になるのです。(受験生時代、「周りのみんなが書くような答案を書け」というような趣旨の指導を受けたことがありますが、それはこういう意味も含んでいたのだと思います。)

 数は多くないかもしれませんが、これまでこの点を意識してこなかった人たちも、意識してみてください。



 実務法学の世界では、独自の視点で独自の見解を叫んでも、何も変わりません。相手を説得できないからです。

 相手(みんな)を説得するためには、仮に個人的に多少納得できない部分があったとしても、「みんなと同じこと」を書けばよいのです。実務法学は哲学ではありませんから、「真に正しい法解釈」(そんなものが存在するのかわかりませんが)など気にしなくてかまいません。誰が見ても住居侵入が成立する事例なら、平穏説と新住居権説の論争など真面目に論じる必要はありません。みんなが「暴行」の定義を「不法な有形力の行使」と解して、「不法」の意味をそれ以上具体化せずに済ませているのだから、そこはそれ以上悩まなくてよいのです。

 悩まなくてよいところをいくら悩んで見せても時間と紙幅を取られるだけで加点にはつながりませんし、もしも他の部分と論理矛盾が生じる記述などしてしまえば減点さえされうることになってしまいます。

 悩まなくてよいところは悩まず、みんなが悩むところで悩みを見せてしっかり書くべきです。


(次の記事に続きます。)



2019年11月10日日曜日

第17回 行政裁量統制の処理方法(行政法) その4


(前の記事の続きです。→その1はこちらです。






4 補足・・審査基準、処分基準といった行政内部の裁量基準がある場合の位置付け


(1)このような基準の法的性質

 前の記事でも少し触れたとおり、行政内部においては、裁量権行使の基準として、審査基準、処分基準といったものが定められていることも少なくありません。


 このような場合、これ自体は「裁量処分において、『裁量をどう行使するか』についての行政内部での見解」を定めたものにすぎませんから、法規としての性質はありません

 では、実際に裁量逸脱濫用の検討をする際には、このような審査基準等をどのように位置づけたらよいでしょうか。



(2)裁量逸脱濫用の議論の中での位置づけ

 上記のとおり、こういった裁量基準は法規ではありませんから、裁量逸脱濫用があるかの検討の際にはこれを無視して、普通に事実誤認や考慮不尽等の有無を検討すればよいだけのようにも思えます。

 しかし、裁量基準が公表されている場合には、原則としてそれに従った裁量権行使がされるべきです。そうでないと、国民の予測可能性を無視したり、平等原則違反になってしまうからです。

 そこで、裁量基準の位置づけとしては、「処分が裁量基準に従わずにされた場合、そのことに合理的な理由がない限り、平等原則違反となる」といった形で、裁量逸脱濫用の考慮要素の一つとなる、と考えることができます。



(3)答案での書き方

 答案では、例えば

①「考慮不尽、多事考慮・・・等や、平等原則違反があることにより、その内容が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものと認められる場合、裁量権の逸脱濫用したものとして違法となると解する」など、平等原則違反も意識した規範定立をする
 ↓
②「本件では〇〇という裁量基準が定められているところ、~という理由から、このような基準は、裁量の範囲を超える不合理なものとは言えない。」
 ↓
③「そして、本件においては、・・・であり、裁量基準の機械的適用を避けるべき合理的理由は見当たらない。」
 ↓
④「したがって、本件で裁量基準に従わずに本件処分をしたことは平等原則違反であり、その内容が社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものといえるから、裁量逸脱濫用の違法がある。」


といった書き方が考えられるでしょう。





5 まとめ

 以上述べてきたとおり、行政裁量については、

裁量逸脱濫用を論じる前に、そもそも「裁量があるのかどうか」を論じる必要があること
・裁量逸脱濫用審査においては、主に判断過程の審査(考慮すべきことを考慮したか、等の審査)を行い、判断代置は行わない、ということ
・裁量逸脱濫用の考慮要素としては、「考慮不尽、事実評価の誤り、平等原則違反」など、さまざまなものがあるが、判断基準定立の際には、自分が答案のあてはめで書きたい要素も含めておくこと

などに留意して、論理の流れを明確にして答案を書くようにすると良いでしょう。




第20回 再現答案・参考答案等の読み方 その3

(前のページの続きです。→その1は こちら です。) 4   再現答案、参考答案の読み方②・・ 論証、あてはめ等の実際の書き方/文例 の 仕入れ  答案の法理論的な骨組みが分かったとしても、実際の試験では、見出しだけ並べるのではなく、文章の形で答案を書かな...